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「白峯神宮:崇徳院と源為朝伝説」③~ピロピの京都観光ブログ

2019.01.03

みなさん。

新年あけましておめでとうございます。

 

昨年末に続き、

白峯神宮にまつわる話。

 

今回は崇徳上皇源為朝が関わった

大きな戦、「保元の乱」を中心に

書きたいと思います。

 

保元の乱

 

平安時代末期、保元元年(1156年)の話です。

 

朝廷の皇位継承問題や

摂関家の内紛が原因で、

上図のように、後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれて

権威を争いました。

後白河院

 

 

保元の乱が

日本の歴史上重要な戦いであるのは、

朝廷の抗争に武士(主に平家と源氏)の力が

大きく関わったこと。

 

この戦いでは

親子、兄弟、一族同士が敵味方に分かれて

戦います。

 

これが以後700年以上続く

武家政権に繋がるのです。

 

 

簡単に保元の乱ストーリーを

説明すると、

 

鳥羽院の子である

崇徳院(母は待賢門院)は、わずか3歳7か月で天皇となります。

その後、鳥羽上皇が寵愛した美福門院

子供が生まれ、崇徳天皇を下ろして、

近衛天皇を即位させます。

 

しかし近衛天皇は病弱で

僅か17歳で崩御。

 

後継者を誰にするか、

朝廷では会議を開きますが、

美福門院のもう一人の子、

幼かった後の二条天皇までの中継ぎとして

後白河天皇が即位したのです。

 

鳥羽法皇や美福門院は

近衛天皇の死が 崇徳天皇に近い藤原頼長の呪いで

ある、と信じていたと伝わります。

 

その後、鳥羽法皇が亡くなります。

病に倒れた鳥羽上皇を見舞おうとした

崇徳上皇は

反崇徳院の勢力の陰謀により

父である鳥羽上皇に会うことを拒否されます。

 

そして、

 

 

後白河天皇・藤原忠道vs崇徳上皇・藤原頼長

の政権争いの構図が出来上がり、

 

後白河方は平清盛源義朝ら武家を味方とし、

崇徳方は平忠正源為義らを味方とします。

源為義

 

 

為義義朝為朝の父であり、

仁義にあふれた武将で、同族で争うことを嫌い

崇徳方からの誘いを何度も断ったのですが、

最後は崇徳上皇方につきます。

 

源為朝

為朝為義の八男。

源義朝とは兄弟、義朝の子 頼朝や義経の叔父

にあたります。

 

 

為朝は幼少から豪傑で

身長2m、号弓の使い手で

手に余した為義は

為朝を九州に追放するのですが、

九州一帯も制圧し「鎮西八郎為朝」と名乗って

いました。

 

為義は崇徳方に味方する際に、

為朝の戦略の才能を入れようと京都に呼び戻します。

 

後白河方は「崇徳院に謀反の動きあり」との

噂を流します。

 

崇徳上皇は当時の拠点、

現在の伏見区竹田にあった

鳥羽田中殿から白川御所に脱出したことに

より、戦いが決定的となります。

 

高松殿にいた後白河天皇のもとに、

最後まで動かなかった平清盛がはせ参じます。

清盛は早速白川への夜討ちを進言して採用されます。

 

一方、百戦錬磨の為朝の夜討ち戦略を

藤原頼長は「これは朝廷と院の戦い。夜討ちのような卑怯な戦略はもっての外」と却下。

 

この保元の乱の勝敗を決めたのは、

武家の戦略を受け入れた後白河方と、

却下した崇徳方の違いである、と言われています。

 

為朝頼長の愚かさに激怒し、

為義はすでに負けを覚悟したといいますが、

崇徳院を守るために戦います。

清盛・義朝方を圧倒した為朝の剛弓

 

後白河方の清盛勢300騎、義朝勢200騎、他100騎

余りが夜襲をかけ保元の乱が起こります。

 

「保元物語」で語り継がれるのは

この戦いでの為朝の獅子奮迅の活躍です。

 

為朝は清盛軍の側近、藤原忠直・山田是行他を討ち、

兄の義朝勢50騎以上を倒して、一時撤退を余儀なくさせるほどの活躍。

 

後年、「吾妻鏡」の中で義朝方の大庭影義が

「為朝は無双の弓矢の達者なり」と敵ながら賞賛しています。

 

為朝の活躍で一時は優勢であった崇徳方でしたが、

後白河方の援軍が到着し、義朝の案で

白川殿に火を放ったことで勝負が決します。

 

崇徳院は逃亡していましたが、

仁和寺にいた異母兄を頼って出頭したが

拒否されて現在の四国讃岐に流罪となります。

 

頼長は傷を負ってその後死亡。

 

崇徳上皇の出頭を知り

為義、為朝らは出頭、らまたは捕らえられた。

 

為義は子の義朝によって処刑されます。

 

為朝は武勇を惜しまれて

弓を引けないように肘の腱を切られて

伊豆諸島に流罪となります。

しかし伊豆でも大暴れして追討されてしまいます。

 

「保元の乱」を簡単に説明しましたが、

 

白峯神社になぜ崇徳院と為義・為朝が祀られているかは、

流罪になった後の伝説と関係があります。

 

次回は その伝説について

紹介したいと思います。

 

 

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